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東京地方裁判所 昭和26年(モ)2606号 判決

当裁判所が被申立人と申立人間の昭和二十六年(ヨ)第一五九二号仮処分申請事件について、昭和二十六年五月十四日なした仮処分決定は、申立人が金弍万円の保証を立てることを条件としてこれを取消す。

訴訟費用は被申立人の負担とする。

この判決は仮に執行することができる。

二、事  実

申立人訴訟代理人は、主文第一項掲記の仮処分決定は申立人において保証を立てることを条件としてこれを取消す旨の判決を求め、その理由として、次の通り述べた。

一、申立人は、被申立人の申請により、昭和二十六年五月十四日主文第一項掲記の仮処分申請事件につき、『債務者(申立人)は、昭和二十六年五月二十五日迄、債権者(被申立人)の経営に係る歌舞伎座において上演中の「沓手鳥弧城落月」の常盤木及び「雪女郎」の信濃に出演のため支障となるような他社の映画演劇等に出演してはならない。』旨の仮処分を受け同日右決定正本の送達を受けた。

二、被申立人の右仮処分申請は、申立人と被申立人との間に、被申立人の経営する歌舞伎座の五月興行に出演すべき契約の存することを前提としているのであるところ、申立人は右のような契約をしたことはないが、その点は暫くおき、本件仮処分については次に述べるような特別の事情があるからその取消を求めるものである。

(1)  被申立人が本件仮処分によつて保全しようとする権利は金銭的補償によつて終局の目的を達し得るものである。

(2)  本件で問題となつている「沓手鳥孤城落月」の常盤木や「雪女郎」の信濃の配役は必ずしも申立人に限ることはなく被申立人は他に幾多の歌舞伎俳優を擁し何等代役に困らず申立人がこれに出演しないとしても殆んど損害はない。然るに申立人は昭和二十六年三月一日訴外東宝株式会社(以下東宝と略称する)と映画出演について専属契約を締結し右契約に基いて、現に東宝で撮影中の映画「海賊船」に出演しなければならないのである。そして右の映画における申立人の役は主役であつて代役をもつて代えることができず、申立人が出演せねばその撮影はできない。東宝においては既に右の映画「海賊船」の撮影を開始しており、右撮影には、申立人の外多数の俳優その他の人を雇入れ、諸道具その他万般の準備を完了して仕事を進めて来ていたのである。従つて本件仮処分の結果五月二十五日迄申立人が右の撮影に出演できないときは、東宝はその準備が無駄になり、申立人の出演が延びれば延びるだけ莫大な損害を蒙り、加えて梅雨の時期も近づきつゝあるので今の内に撮影を進行しておかなければ、映画の配給計画にも阻誤を来たし、(「海賊船」は特にお盆興行用として製作されている)ために東宝は数千万円に上る巨額の損害を蒙ることになり、この損害は前示の契約に明示されている通り、申立人の負担に帰し、申立人は東宝に対しこれを賠償しなければならないことになるのである。申立人が前記の歌舞伎座の興行に出演しないために被申立人の蒙るべき損害と比較すれば、本件仮処分によつて申立人の蒙るべき損害の莫大なることは言を俟たない。

(3)  尚申立人は世間の人気を生命とする俳優であるが本件仮処分の結果あたかも被申立人に対し契約違反の事実があつた如く悪評を流布され世間殊に芸能界の信用を極度に失墜し、致命的な損害を蒙るのである。

三、更に申立人は本件の特別事情認定のための資料として次の経緯を明かにしておく。

申立人が東宝との間にその映画出演について専属契約を締結していることは被申立人も熟知しているところである。

本年四月歌舞伎座で六世中村歌右衛門の襲名披露興行が上演されるに当り、申立人は被申立人の申出があつたので、東宝の了解を得て、四月中に限りこれに出演することを承諾して出演した。その後右興行は五月中も引続き上演されるという噂を聞いたので、申立人は五月の興行には出演できない旨を予め、被申立人に通知しておいたのである。右の四月の興行は二十九日に終り更に五月二日を返り初日として五月中も続行することとなり、被申立人から申立人に対し出演方の申出があつたが、申立人はこれを断つた。然し被申立人から更に代役を探す関係もあり、東宝の撮影の始まる迄歌舞伎座に出演して欲しい旨の申出があつたので、申立人は好意上五月十日迄出演した。然しこれは好意上のことで契約に基く出演ではない。従つて申立人は五月分の出演料を貰う考はなく、被申立人から五月分の出演料と称して金一封を持参したことはあるが、申立人は五月中の歌舞伎座出演を断つてあるので受取れない旨はつきり拒絶してある。<立証省略>

被申立人訴訟代理人は申立却下の判決を求め、答弁として、次の通り述べた。

一、本件の被保全請求権は金銭補償では終局の目的を達し得ないものである。

申立人は「沓手鳥孤城落月」の常盤木や「雪女郎」の信濃の役は、必ずしも申立人に限ることはなく、被申立人は他に幾多の歌舞伎俳優を擁し、何等代役に困らず、申立人が出演しなくても殆んど損害はないと主張するが、歌舞伎興行においては、初日に出演すれば千秋楽迄身体の故障以外は如何なる事由があつても出演しなければならないことは三百年来守られ来つた不文律である。問題は常盤木や信濃に出演する俳優が他にあるかどうかではなく興行の中途で代役が許されるかどうかの点である。被申立人は六世中村歌衛門襲名披露の五十日延続興行にあたり、上演狂言、出演俳優を特定して発表し、観客は、これに基いて入場券を購入し、入場しているのである。入場券発売にあたつても、俳優が病気休演の際は代役出演のことを予告してあるが、他社の映画製作のために、代役を出演せしめることは歌舞伎興行上前例がなく、一般観客に対し被申立人として釈明すべき方法なく、被申立人の興行的信用を失墜させること甚だしきものであり、その損害は金銭補償をもつて到底償い得ないものである。

二、本件仮処分により申立人の蒙る損害について。

申立人は東宝との映画「海賊船」出演契約に基く出演ができないで、撮影が遅延すれば、東宝においてこれがため数千万円の損害を蒙り、申立人はこれが賠償責任を負う結果、被申立人の蒙る損害に比し莫大であるとしているが、その主張は全く誇張である。

即ち、本件仮処分命令は、被申立人と申立人間の出演契約期間たる昭和二十六年五月二十五日迄歌舞伎座出演に支障となる他社への出演を禁じたもので、決して無期限に禁じたものではない。従つて仮処分命令正本送達の日たる五月十四日から起算して、僅々十二日間だけその効力を有するに過ぎないものである。

しかも、申立人の歌舞伎座出演は昼の部の狂言第一と第三のみであるから、出演後相当の時間があり、夜間撮影なりその他の方法をとれば仮処分期間中昼間撮影ができないとしても決して損害を発生すべきものでなく、数千万円の損害発生等は全く虚構の主張である。

更に、六世中村歌右衛門の襲名披露興行が五月二十五日迄の長期興行であることは周知の事実で、申立人と東宝の間に映画「海賊船」に出演する契約があつたとしても、申立人は歌舞伎の千秋楽後にこれに出演するよう手配すべきであり、又事実手配していた由であるから、東宝においては五月二十五日迄「海賊船」に出演できない事情は十分知り得たところである。このような事情に拘らず東宝において五月十一日申立人の休演以来撮影を開始し乍ら本件仮処分命令によつて撮影が遅延し莫大な損害を蒙り、それが申立人の負担となることを以つて特別の事情として主張するのは失当も甚しい。

これに対し被申立人の蒙る損害は前述の通り興行的信用の失墜という量り知れない莫大なものなのであり、加うるに本件申立人の如く興行中途において舞台を放棄する俳優が更に出でんか、歌舞伎演劇は遂に成り立たず、被申立人の社運に関する重大問題である。

三、被申立人は更に特別事情認定の資料として申立人の主張するところに対し次の経緯を明かにする。

被申立人において六世中村歌右衛門襲名披露興行を本年四月から五月末日迄延続大興行とする企画は早くから発表しており、その際申立人はその先代が五世中村歌右衛門に師事していた関係上是非出演させて欲しいと申込み昼の部の「沓手鳥孤城落月」及び「雪女郎」出演の外、夜の部「京鹿子娘道成寺」にも出演したい旨申込んでいる以上五月二十五日迄歌舞伎座に出演する義務のあること多言を要しない。歌舞伎出演の契約は、何等の書面を作成しない慣例であり配役を決定して台本を交付し出演者がこれを受領することによつて確定的に契約が成立したものと認められるのである。而して、出演料については慣例に従い、被申立人は四月分税込五万円を四月三日に申立人の世話人である堀倉吉を通じ、申立人のマネージヤー吉田勇男に手渡してあり五月分は五月一日に前同様の方法で同じく申立人に支払済である。尤も申立人から五月興行は休演したい旨を四月末になつて申入れた事実はあるが、被申立人はこれを明確に拒絶し、申立人も納得して五月二日から出演していたものであるから、五月二十五日の終演迄出演の義務のあることは明かである。<立証省略>

三、理  由

一、申立人が、被申立人の申請による当裁判所昭和二十六年(ヨ)第一、五九二号仮処分申請事件において、昭和二十六年五月十四日、『債務者(申立人)は昭和二十六年五月二十五日迄、債権者(被申立人)の経営に係る歌舞伎座において上演中の「沓手鳥孤城落月」の常盤木及び「雪女郎」の信濃に出演のため支障となるような他社の映画、演劇等に出演してはならない。』旨の仮処分決定を受け、同日右決定正本の送達を受けた旨の申立人の主張事実は被申立人の争わぬところであり、証人森田信義の証言によると、当時訴外東宝株式会社製作の映画「海賊船」の撮影に出演中であつた申立人は右決定の趣旨に従い同月十五日より、これに出演することを止め、本件口頭弁論終結当時迄その状態が続いていることが疏明される。

二、証人雨宮恒之の証言によつて真正に成立したものと認められる甲第三号証の記載及び証人雨宮恒之、同森田信義、同高橋歳雄の各証言を綜合すると、申立人は芸名を大谷友右衛門と称する歌舞伎俳優であるところ、昭和二十六年三月一日訴外東宝株式会社との間に、同日より昭和二十七年二月二十八日に至る間、東宝の専属映画演技者として、その製作する映画のみに出演すること、東宝は申立人の舞台出演を尊重し、この契約による映画出演に支障のない限りその自由を拘束しない、この場合申立人は舞台出演決定以前に、努めて早期に東宝に連絡し、その諒解を得ること、等を内容とする所謂映画出演の専属契約を締結したこと、一方被申立人は昭和二十六年四月から五月にかけて、六世中村歌右衛門襲名披露の歌舞伎興行を歌舞伎座において行うことを企画し、申立人も、その先代が五世歌右衛門に師事していた関係で、これに出演することを希望し、東宝に対し諒解を求めたところ、当時東宝は申立人との契約に基き、申立人を主役とする映画「海賊船」の製作を所謂お盆興行用として企画していたが、撮影開始は五月の予定となつていたので四月中の歌舞伎座出演を諒承し、申立人は歌舞伎座の四月興行昼の部に「沓手鳥孤城落月」の常盤木及び「雪女郎」の信濃の役で出演したこと及び右の四月興行の開始後間もなく、右の興行は五十日続演のことが東宝の方へも判つたので、東宝から申立人に対しこの点を質したが、申立人は訴外堀倉吉を通じ被申立人の諒解を得られるものと思つていたので、その旨を東宝に解答し、東宝はこれによつて五月から撮影開始の企画を進めたが、一方被申立人は、申立人が、五十日延続の興行に出演を承諾したものとみて、五月に入つても申立人が出演することを前提として五十日延続を一般に公表してあつたので、堀等を通じて東宝にこの旨を申入れたが、東宝も前記の通り申立人の映画出演を前提として準備を進めていたため、話合がつかず、結局東宝はその撮影開始に支障のない五月十日迄の歌舞伎座出演を諒解し、申立人は五月十日迄歌舞伎座に出演し、翌十一日から休演して東宝における映画撮影に参加し、このような経緯を経て、被申立人から本件の仮処分申請がなされるに至つた事情が疏明される。

右の事情を前提として、申立人の主張するような本件仮処分を取消すべき特別の事情の存否を以下に判断する。

三、本件の被保全請求権が金銭補償により終局の目的を達し得るものとして取消すべきかどうか。

本件の仮処分は、被申立人の申立人との間の歌舞伎座興行出演契約に基く出演請求権を保全せんとするもので、証人高橋歳雄の証言によると、被申立人としては、申立人の出演する「沓手鳥孤城落月」及び「雪女郎」を含めて五十日の延続を一般に公表した以上、その出演俳優の他社出演による休演は、演劇興行等を目的とする被申立人会社の信用を失墜すること甚だしいものとして、これを防止するために本件仮処分申請に及んだことが疏明されるのであるから、かゝる仮処分を、右の信用の失墜も結局は経済的な損失に帰着する点を捉えて、金銭補償で終局の目的を達し得べきものと見るのは当らない。此の点に関する申立人の主張は到底採用し難い。

四、証人雨宮恒之、同森田信義の各証言によると、申立人が東宝との契約に基き出演中であつた前述の映画「海賊船」は本年七月十三日からの所謂お盆興行に上映すべく企画され、すべて準備完了して五月十一日から撮影開始となつているが、開始早々本件仮処分があつた結果、主演俳優たる申立人の不出演のため撮影の計画が狂い諸準備万端整えて撮影にかゝつた東宝としては大打撃を蒙り、延いては同社の映画配給計画全般にも影響を来たすべきおそれのあること、又右映画には既に現在迄に支出の確定した金額が千百万円余に上つていることが疏明され、右証人等の述べるように、これがすべて申立人の不出演による損害と見らるべきものとは到底考えられないけれども、申立人個人として負担に堪え難い程度の損害(その額の算定は現在困難であるが)を東宝から請求されるおそれが多分にあることが疏明される。

ところで、本件のような出演禁止の仮処分においては、仮処分債務者が当該出演によつて得べかりし利益を失うの外、出演契約の不履行による相当の損害賠償の義務をも負うに至るべきことは通常予想されるところであるが、本件における如き、映画の撮影及び配給の企画の狂うことによつて生ずべき損害を負担せしめられる如き多大の損害を蒙るおそれの多分にある事案においては債権者、債務者双方における仮処分の取消又は維持による損害の較量、被保全請求権の性質、内容その他一切の具体的事情を検討し、衡平の見地から、民事訴訟法第七百五十九条により、仮処分の取消を認むべき場合の存することは固より当然である。そこで更にかゝる見地から申立人の主張する事実関係を基礎にして考察を進める。

(1)  前述したように、被申立人の申立人が歌舞伎座に出演しないことによつて蒙るべき損害と、申立人の前示映画に出演を禁止されることによつて蒙るべき損害は、双方正確な算定比較は困難であるけれども、その程度において申立人の損害が遙かに多大であることは認め得るのである。(被申立人が一旦一般に公表した配役を興行中途において変更することによつて蒙る信用の失墜も、それが該興行における中心的配役であるかどうかによつて自ら差異がある点をも考慮すべきである。)

(2)  又、証人吉田勇男、同森田信義の各証言によると、本件仮処分により、東宝の「海賊船」撮影への出演を禁止された申立人は、映画への出演は右仮処分の趣旨に従い止めたのであるが、被申立人との間には出演契約がない旨主張して歌舞伎座への出演を肯んじないでいる事情(従つて、本件仮処分の取消は、申立人の歌舞伎座への出演の見込を事実上無にするに近いが、現に歌舞伎座に出演しているのを止めて東宝の映画に出演させる結果をもたらすものではない。)が疏明される。

(3)  更に飜つて考えるに、申立人は前述の通り、東宝との契約に基いて映画「海賊船」に出演していたのであり、被申立人との間に歌舞伎座に出演すべき契約があるとすれば、申立人は東宝と被申立人とに二重の出演契約を結んだものと見る外なく、右両個の契約は本来その間に優劣はなく、互に他の契約の効力を排除し得ないものである。従つて、本件仮処分によつて、東宝との契約は、本来対等であるべき被申立人との契約に事実上優先されたことになり、本件仮処分が取消されることにより、東宝との契約の効力の劣位が回復され、両個の契約は再び対等の関係に復し、出演の選択が申立人の意思に委ねられる本来の姿に立ちかえる結果を来たすにすぎないのである。

五、右の各事情を綜合すれば、本件は民事訴訟法第七百五十九条に所謂特別の事情あるものに該当すると認めるべきである。よつて申立人に金弍万円の保証を立てさせることを条件として本件仮処分を取消すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、第九十五条、仮執行の宣言につき、同法第百九十六条の規定を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 安岡満彦)

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